死ぬよりひどい目に遭った

子供の頃から、親と手をつなぐ、何かを教わる、好き嫌いを聞かれる、

と言うのは無かった。

小4の頃、よく解らない理由で、正座させられ顔面を往復ビンタされていた。

学校ではその後問題児になったので、親に日赤病院に連れて行かれた。

そこで心理か何かの人に、担任の教師からの暴言と嘲笑について話したら、

医師がきて、「それが本当かどうか担任に聞いいていいか?」

と聞かれたので、その担任が本当のことを医師に言うわけないので

呆れて黙ったら、その医師はこちらが嘘を付いていると思ったらしく、

親に「この子は来ても無駄だ」といったので、それきりになった。

中学では、勉強ができずに将来ある程度の所に就職できなければ、今より酷いことに

なると思って、無理やり丸暗記して、結構良い点数をとっていたので、

なんのサポートも受けれなかった。

高校は進学校へ通い、したくもないことを丸暗記していたので、不安定になったとき、

医師に診てもらった時も、普通の家庭の受験生と思われ「甘えてるだけ」と言われ、

何もサポートを受けれなかった。自分の願望を持つなどの余裕も無かったので、

行きたくもない、内容も理解できない理系に行かされた。

大学入学後に、家族療法に行ったら、そこの医師が、こちらが大学のランキングが気に入らなくてゴネているだけと思って、親に対して

「子どもとぶつかり合え」といったので、さらに親からひどい目に遭った。

そこで紹介された「○○セラピー」とかに行ったら、こうすれば良くなるなど言われ

それに自分を合わせてやったら、さらに悪化した。

「夜と霧」を読んでも、それについて「衝撃を受けた」という人がいるのに驚いた。

なぜ自分が、ナチの収容所や、シベリア抑留の話を読んでいるかも解らなかった。

世の中はそんなものだと思っていた。

兄の奥さんは、こちらのボロボロさに気づいていたようだが、嫁という立場から、

何もできなかったようだ。

大学を休学していて、偶然、ユング派の深く関われる医師に継続的に時間をとって

もらって面接してもらい、

そこで自分がずっと虐待されていて、刑務所より酷い家に育ったことに気付いた。

その医師が、年齢のため、こちらの地方に来れなくなったので、

京大医学部卒の医師に引き継がれたが、その医師は重い患者さんのことを、

「まともに相手してもしょうがない」という人だったので、治療関係が

成り立たなかった。

その後、深く関われる心理士に診てもらえるようになり良くなって来たが、

今でも家族療法の医師には「人生を返せ」と言いたい。

暴力が正しい家庭もある。

子供の頃から親に何かを教わったことや遊んだことがなく、

親も誰からも相手にされない人だった。

9歳位の頃、母親によく解らない理由で正座をさせられ顔面を往復ビンタされていた。

これはこうするものだ、こうするのが正しい、というのを教わらず、

急に暴力を振るわれたから、外部からの暴力が正しく、自分の感覚など

意味が無い世界にいたのだと思う。

シャーンドル・フェレンツィという人は、子供が虐待された場合、

思考の上で対抗できないことも在るというようなことを書いていた。

ネグレクトで善悪とかいろいろ教わっていないと、

親や外部からの暴力が正しいと思うケースも多いのだと思う。

両親と精神科医は虐待の共犯

親のネグレクトと虐待でそもそも勉強に興味はなく、自分の好き嫌いも

はっきりせず、学校でも地域でも孤立していたが、

それなりに良い学校をを出ないと今よりひどいことになりそうなので、

無理やり暗記していただけなのだが、孤立とかで学校に行くのに耐えられずに

辞めようとか休もうとかしても、すぐに親に車で精神科医に連れて行かれたり、

家まで精神科医を連れてこられたりした。

医者は虐待とかネグレクトとかが解らないのと、こちらも暴力が普通の家庭に

育ったので、それをおかしいとも思わず、医者もこちらが学校で孤立していて、

学校どころではないのを解らないので、「甘えているだけ」などと言って、

抗不安剤とか眠剤を出すのみで、何もしなかった。

医師は普通の家庭しか想像できずに何も介入せずに、薬で何とか落ち着けて

学校に行かせようとしていたのは、虐待の共犯だと思う。

うちの母親について。

うちの母親は、戦前の大卒で商社のソウル支店長だった祖父の娘として産まれ、生母は母親を産んですぐに亡くなり、同居している叔母さんに育てられたそうだ。

母の姉は学校に行かされず、家で教育を受けたそうだから、

母親もそうだったのだろう。

周囲からは「家の外に出たらさらわれるで」とか言われていたそうだ。

小学校の低学年のときに敗戦で全て無くして、カバンひとつで帰ってきたそうだ。

学歴のある相手と見合いで結婚したが、嫁ぎ先の祖父は、アルコールを飲んで暴れて、

父親の他の兄弟姉妹からもいじめられたが、父親は守ってもくれなかったそうだ。

最初は団地で父親と住んでいたが、祖父が庭に家を立て、そこに住まわされたとのこと。あまりに苦しいので、子供を連れて出ていこうとしたが、自分の父も亡くなり、

時代的に女性が働くのも難しく、出て行く先がなかったらしい。

夫は理解不能な相手で、義父も理解不能で何をしだすか解らない相手だったので、一番無力なこちらに突発的に暴力を振るっていたのだろう。

理由の分からない暴力に晒されていたのと、世話をされたり、何かを教わることも

無かったため、こちらも周囲の刺激に対して、暴力的に反応していた。

そもそも暴力を振るってはいけないとか、ちゃんとした口の聞き方や、教師には従う

ものだということも教わった事もない。

外から帰ったら手を洗うとか、朝に顔を洗うとかも知らなかった。

下町なら近所の人があれこれおせっかいを焼いて、介入するのだろうが、

地域的にそういうことも無かった。

うちの父親について。

うちの父親は、アルコールの問題を抱えた、理解不能な人柄の現場労働者の祖父の長男

として産まれ、祖父の劣等感と被害者意識から、ベッタリ勉強をさせられて、高校浪人もさせられて、英文学に興味があったので、英文科に行きたかったらしく、実際、国立大の英文科にも合格していたが、祖父に「英文学で食っていけるか」とか言われ、防衛大学にも合格していたので、そちらに行かされたとのことだ。

そもそも、関心もない暗記勉強をさせられていて、国防にも興味が無いのに行かされて、プライバシーのない防衛大で、当時の戦争体験者の教官に命令されて、あれこれ

させられていたようだ。

国防に興味を持とうにも、当時は自衛隊も軍事力も認めない世の中だったことも有り、単に無理やりやらされて居ただけのようだ。

自分の考えに基づく行動をする人格の基礎も持てず、単に命令されて暗記してやらされていただけのようだ。

暗記力と基礎体力が有ったので、辞めることもできずに卒業し、幹部学校にいったが、

将校として部下に命令する自分の考えも持てずに居たので、上官の言いなりに何かをしても、部下に何かを命令することができずに、中途退学したようだ。

メーカーに入社したが、言いなりにやらされる以外の自分というものがないので、周囲に馴染めず、単に居させてもらっていただけのようだ。

そしてそのまま自分というものを持てずに、人生を終えようとしている。

こちらのいろいろな事で、家族療法をやっているところに行ったが、そこの医者やスタッフは、当然、そのようなバックグランドを想像もできずに、あれこれ介入したので、

父親が防衛大の教官から部分的に取り入れたらしい、大声で騒いでやらせるという所を

こちらに向けてきただけなので、こちらが余計に被害をうけることになった。

医療関係者の歴史と家族や生育歴を結びつけて考える能力の欠如というのは、

多くの場合、壊滅的な影響をもたらすのではないだろうか。