中動態の世界 意志と責任の考古学 (シリーズ ケアをひらく) :國分功一郎著
なにかと「本人が努力したから」「努力しなかったから」
あるいは「本人が決めたから」などの表現が使われるが、
何かをしたり決めたりする自己感覚、主体というのは、
そこまでの生育を支える周囲のサポートがあっての事だろう。
解りやすい例を挙げると、日本でそれなりに恵まれた家庭で育てられれば、
自分から学校の勉強をしたり、習い事に打ち込んだりということになるが、
アフリカでゲリラにさらわれた子供は、脅されて自らの手で
自分の家族などを射殺させられたりして、むやみに発砲する少年兵となる。
最近は日本でも、「地方のマイルドヤンキーは勉強しようとしない」等の
表現があるが、そもそも養育者が子供を世話をする余裕がない、
などであれば、何かを決める、何かに取り組むという主体性も育たないだろう。
「地方のマイルドヤンキー」のように周囲と集まって遊んで騒ぐほどの
社会性を持てるならばともかく、一人でゲームやネットをしている子供のほうが、
周囲に迷惑をかけないが、主体や自己感覚が未発達で、その後が困難だろう。